我が家には中学二年の娘が居ります。
思春期、成長期、反抗期、親離れ、厨二病。
いろいろと言い方はあるかと思いますが、親としては子供との接し方が非常に難しい時期だと思います。
( ・`д・´)「お宅のお嬢さんはさぞ良い子なんでしょ?うちは大変!この気持ちは貴方には分からない!」
そんな風に見えるのかもしれませんが、実は我が家も皆様と同じように毎日が修羅場です。
うちのケースは母親に対しての異様な反抗。
言葉使いや態度、行動は日に日に悪い方へとエスカレートしておりますが、その他の大人に対してはそれほどでもありません。
警察のお世話にはなっておりませんが、不登校や自傷行為、怪しいサプリメントの摂取など、お世辞にも
( ・∀・)「うちは大丈夫」
とは言えない状態です。
これが成人後ならばまた対応は異なるのでしょうが、未成年ということで、アタクシも学校に呼び出されたりしています。
今回、何が言いたいのかと言えば、同じように悩んで苦しむ子を持つ親に対して
( *´・ω)/(;д; )「貴方達と同じように大変な思いをしている人は沢山居るよ」
とお伝えしたかった、ということ。
何を考えているのか分からない
ほぼ全てのケースで言えるのは親子のコミュニケーション不全。
これは『会話が無い』というものに限ったものではありません。すぐに言い争いになる、または会話があっても本心を語らない、嘘ばかりつく、という意味も含まれます。
相手の気持ちが分からないのだから、何をして欲しいのか、何を嫌がっているのかも分からない。そう感じて困り果てている方がとても多いようです。我が家も同じ。
しかし良く考えてみると
そもそも他人の気持ちが分かるということなんてありえるのでしょうか?
思春期の子供に限らず、自分以外の人間の気持ちが本当に理解出来る筈が無いのです。
( ・`д・´)「そんなことない!○○ちゃんの気持ちは今まではずっと分かっていた!」
いいえ、そんなことはありません。
それは単に親が
親:推測
↓
親:○○(気持ち)なんでしょう?
↓
子供:肯定的な返事
という流れから、それを子供の本当の気持ちだと勝手に解釈していただけに過ぎないのです。
つまり、急に子供が何を考えているか分からなくなったのではなく、そもそも分かっていると誤解していたということ。
ですがご安心下さい。
ほとんどの親はこの誤解を当たり前のようにしています。
この誤解に基づいた流れこそが、何も知らない幼少期の子供にとっては人間的な反応の教科書となってきたのです。
こんな場面では、こんな風に思うのが良いのだな、という感じにシーン別に学ぶことで、人間社会に馴染んでいったのですから。
しかし
ご存知の通り、人間やこの社会はそれほど単純に出来ておらず、経験が多くなる程に今まで学習してきたものだけでは対応出来なくなっていきます。
とある場面で、親から学んだ通りの反応をしたことで周囲と争いになったとします。
( ;´・ω・`)「何でこんなことになったのだろう?自分の気持ちや反応がおかしかったのかな?」
今まで学んできたものが、絶対ではなかったことを身をもって知るのです。
そして子供が直面するのは
(;`・ω・)「(もしかして両親が言っていることは全て正しい訳じゃないの?)」
という問題。
親への絶対的な信頼が揺らぐ
今まで無条件で信頼していた親。
それが間違っているかもしれないという不安は、一度抱いてしまえば消えることは無いでしょう。
そしてそれは子供の成長と共に確信に変わります。
その時に子供が何を思うのか?
以下は推測でしかありませんが
・信頼を裏切られたことへの恨み
・間違いによって被った被害に対する賠償欲求
・自分への謝罪
こうした気持ちや欲求を抱いてもおかしくありません。
視点を変えてみれば親は子供から反抗される理由があり、子供には反抗する権利がある、とも言って良いでしょう。
決して『理由無き反抗』ではないのです。
子供はいつから大人になるのか?
相談を受けた際にアタクシが良く言うのは、男の子は高校卒業ぐらいの時期に急激に大人っぽくなり、女の子は小学生からだんだんと大人っぽくなる、というもの。
基本的に男子高校生の頭の中は、小学校高学年の頃とあまり変わらないのですが、18歳くらいに突然何かが起こったように成長します。理由は良く分かりません。
で
大人っぽい=大人
ではないのがポイントで、人間の内面を見るならば、大人と子供に明確な線引きは不可能です。
アタクシは40歳半ばのおっさんですが、いまだに子供っぽいところがあると言われます。
子供っぽい、とは突き詰めて言えば、周囲の人や場所や時間、常識などにとらわれずに物事に集中する様を表しているのだと思っています。時には近しい人に迷惑を掛けることもあるでしょう。
大人っぽさ、とはこの逆で、それらを強く意識しつつ責任をもって多角的に物事を進めていく様ではないでしょうか。
我々の社会では、この大人っぽさを自分の意思で引き出せる能力の高い人を『大人』と呼んでいるだけです。
さて
話は戻ります。思春期の子供というのは、不確実ながらもこの大人っぽさを意識的に引き出せるようになった、と言えるかと思います。
敢えて定義するならば『経験の少ない大人』なのです。
だとするならば、そうした子供に対してどう接すれば良いのか、少しずつですが見えてきそうです。
まずはここから始めよう
あなたの仕事場に将来有望な新人が入ってきた、と想像して下さい。
仮にその会社を『大人株式会社』とでもしましょう。
その新人は入社前の研修で教えられたことが実際の仕事で役に立たなかったことから自信を失い、研修で教育を担当していた貴方に対して怒りを覚えているようです。
会社からは貴方に責任は無いと言われています。貴方は教育担当としては経験が浅いからです。
実は入社当初の貴方にもそんな時期はありました。その時はどうしていたのかは思い出せません。
そんな状態のまま、貴方と新人は会社に二人だけになってしまいました。
さてどうすれば良いのか?
まずは相手がどんな気持ちなのかを考えてみましょう。
( ;´・ω・`)「他人の気持ちなんて分からないって言ったじゃん」
分からなくても考え、察することは出来る筈。
そしてそれは相手に伝わります。伝わらないならば伝える努力をする。
(;`・ω・)「でも何て話し掛けてあげれば良いのか分からないよ」
○○してあげる、という心理は『上から物を言っている』ということを知りましょう。
経験に差はあっても相手は同じ人間。
一人の人間として、あくまでも対等の存在であると認めなければ何も始まりません。
( ・`д・´)「私が育てたんだから、対等というのはいかがなものかと!」
相手から人生の先輩としての扱い(尊敬など)を受けたいと思うのは別に構いませんが、それは自ら欲したり、そうあるべきものだと押し付けるものではありません。自らの行動により相手側から授かるものであり、時には勝ち取るものです。
親だからといって、無条件でそうしたものを得られるという考え方が、相手を侮辱するものだということを理解しましょう。
まずは
・対等の存在として尊重し意見を押し付けない
・自分を過剰評価しない
・相手の気持ちを考えて思いやる
ここから始めてみてはいかがでしょう。
上記を踏まえておけば、どんなに短い、そして些細な会話でも、やがては円滑でスムーズなコミュニケーションの足掛かりになっていくことでしょう。
まとめ
子育てに正解はありません。
しかし、今までと明らかに態度や行動が変わってしまった我が子に対して、恐怖や落胆の色を見せる親御さんは大勢見てきました。
( TДT)「育て方を間違えたのかしら」
正解は無い、ということは明らかな間違いも無い、ということ。
それから悩んでいるのは貴方だけではありません。同年代の子供を持つ親の多くが同じく悩んでいます。アタクシも同じです。
子供に変わって欲しければ、まずは親から。
必要以上に自分を貶めることなく、我が子を大切な友人だと思って、根気よく冷静に接していきましょう。この経験は必ず親と子の双方にとっても、大きな財産となるのですから。
最後に
これを読まれた方の気持ちが少しでも楽になったのなら幸いです。
一緒に頑張っていきましょう。
あと今日も学校に行ってきました。子供より出席率が高いかもしれません。
コメント
コメント一覧
十数年後にはきっと同じ悩みを抱えるのかもしれないと思いつつ読ませていただきました。
親になった際の心づもりとして、記録と記憶に残しておきます。
自分が中学生だった時にどれだけ親に迷惑をかけたかと思うと恥ずかしいです。
大人がバカに見え、自分が大人と同じだと変なプライドばかり育っていたように思えます。
因果応報とはこのことですね。
今は私が世話役の組合員さんのご家庭がこのようです。親父さんご自身が失調症が重くて反抗心の表現の裏というか娘さんの親を案ずる気持ちを察するととてもやりきれない心境です。
私自身は社会人になった三人の息子達に10年前からの不甲斐ない姿を晒してきただけで何もこうだとは言えませんが、3つ子の魂と言うのか、父母を思う子の本能は親心より強い一方通行の絆ではないかと感じるようになりました。そんな子供たちの自然な気持ちや純真な忠孝の発露がまさかの表現と受け手には溢れて受け取れない量に戸惑うのかと感じます。際限なく幸せをかんじさせてくれた赤子から、言葉も出来ないのに夫婦のいさかいに一歳の体を割っていれてやめさせたり。沢山の孝行は理性なんかでないのでしょう。
最近特に虐待や家族内の殺人などのニュースが多いようで、親子の絆について、いや、家族の形について考えさせられる機会が多くなったと思います。
同じ人間が居ないように、同じ家族も存在しませんから、それぞれの事情は違うとはいえ、普遍的なものもきっとあるのではないか、あっても良いのではないかと感じております。